途中が好き

途中、というのが好きだ。英語だとprocessという言葉になるのだろうか。

嫌いなのは「それで結果的にどうなったの?」という話で、結果だけ聞いて、ああ、そういうことなんだと、わかったようなことを言われると少し悲しくなる。

たとえばね、少々汚い話で恐縮なんだけれど、上の息子がトイレトレーニングを始めた時のこと。

おしっこは出そうか出そうでないか、意識できるのだけれど、大きい方はどうしても、先に来てしまう。

認識よりも先にやってきてしまう。

怒ってみても、嘆いてみても、来てしまうんだから、どうしようもない。

トイレに彼の大好きなジャングルの草原のポスターを貼り、大きいのがトイレで出たら動物のシールを、なんと出血大サービスで3個貼って良い!(ちなみにおしっこは1個)

というキャンペーンもしてみたが、あまり効果はない。地道に1個ずつシールは増えていくばかり。

そこで、はたと気がついたのだ。

今思えば当たり前のことなんだけれど、来ちゃう前のなんとなくムズムズするときを、彼はまだ知らないのだ、ということを。

大きいのがおなかの中でつくられて、外に出るまでの、後半戦を意識できていないのだということに気がついたのだ。

母である私は、その後半戦を伴走することにした。

ご飯を食べた後、おなかに手をあてて

「こびとさんが今、〜くんのおなかの中で、一生懸命働いてくれています。こびとさんにアリガトウ!」

「こびとさんが〜くんの○○チをつくってくれてるところです。そろそろ下におりてくるかなー?」

ここからトイレに座って、今度は楽しい話、うちの場合は

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という本が好きで、何度も読んでいるから、私がこの話の中に出てくる恐ろしいトロールになってお話をする、という展開に。

とにかく、とにかくトイレに座ったままにさせておく。

しばらくすると、うーんと力み出して、放出完了、となるのだけれど…。

大切なのは「うーん」となってから、ではなく、その前の、言葉にならない、いつ始まったのかすら定かではなく、あやしいなあ、そろそろかなあというところを、認識できるか、ということだと思う。

息子はそれから必ず「あっ!○○ち!」と言えるようになった。

私はここで、別にトイレトレーニングをどうやったら成功させられるか、という話をしたいのではない。

もっと言うと、私はあんまりうまくいかなかったほうだと思う。とても焦っていたし、かなり怒鳴ってしまって、あのときは息子に申し訳なかったと思っている。

でも、話したかったのはそこではなくて、この「あっ!」のところまで、こういう、途中のところが好きだ、という話なのです。

本当においしい料理が出てきた時、間違いなく作り手が心地よい疲労感で満たされている感じ。

ここのパスタは美味しい。シェフが〜で学んだ人なんだってね。

こういうのは情報だから、すごく助かることも多いし、別にこれはこれで大切なのだけれど、情報だけ話していてもなかなか近づけない。相手にも、そして私自身にも。

これから生きて行く上で、情報に積分できないことをどれだけ語れるか、というのが、私の挑戦なのだと思う。